20200618

いちばん大事だと思うものを1番目におくと、
ぜったいに計算が立たなくなるんです。

2番におくとできるんですよ。
これがね、なんかすごいおもしろい法則で。
2番にしとくと、どんどん解決するんです。

ほぼ日刊イトイ新聞 - 愛と言うにはちょっと足りない。

 

分かるような、分からないような。

言いたいことは分かるんです。一番だけを求めたり守り続けることは視野を狭めたり、行動に自ら枷をかけてるってことは。ただ、これを自身に置き換えた時に的確な答えを出せるかというと出せないなって数日考えていた。

自分の中の優先順位を考えると、下記のようになる。

  1. 娯楽
  2. 睡眠
  3. その他

 

自分の中の一番はゲーム(娯楽)としていて、これを二番目に置くとするならば、単純に考えると順位の繰り上げ繰り下げが起きるだけだけど、一番は生きていくために必要な仕事になると思うんです。つまるところ、

  1. 仕事
  2. 娯楽
  3. 睡眠
  4. その他

で、例えば1の仕事を娯楽を優先させずに懸命に働き、そこで楽しみを見つけ出すのが一つの解だとすると、その瞬間に仕事の中の優先順位で、さらに分岐が起きていると思うんです。

  1. 仕事
  2. 仕事
  3. 仕事
  4. 娯楽

       :

仕事の中でさらに優先順位が増え、仕事に対する姿勢が変わり、結局本当の自分の中の一番の娯楽がどんどん下がっていく、最後は一番であったという最初の気持ちも失ってしまうような。そんな怖さがある。

自分の中で考えていたらとても怖いことで、一種の洗脳にも思えてしまった。

極論、ゲームや娯楽なんて人生におけるスパイスのようなものと割り切ることができれば、この優先順位が下がり続けることにも納得はいくし、それが大人になるってことならそれでいいのかもしれないけれど、娯楽はメインディッシュと考える自分はそんな大人にはなりたくないので、別の結論を模索していた。

 

二つ目の解は、一番の中に階層を作らず、常に二番と共存を図る。

例えば一番をしていた時に、ある選択肢が訪れるとする。その時に一番のみを考えるとAの選択肢が魅力的であっても、Bの選択肢であれば二番も十分に満足のいく結果になり得るとする。一つ目の解ではAを選び続けていたのであればBを選ぶ。するとおそらくは本当の一番が二番であり続けるのではないかなと思った。

幸福度とか分からないけれど、自分を騙し続けて得る幸福よりも、本当に自分の求める幸福が手元にあり続ける方がやはり人間幸せではないのかなと思う。

 

ただ、これを考えてみたものの、二番目に置いていたはずのものを一番の中に紛れ込ませている。つまるところ本当の意味では二番目におけていない。で、あれば最初の一番を二番にしろを正しく行えていないのではという結論に至る。

こうなってくるとがんじがらめ。一番と二番を切り離すと二番ですら無くなり、共存を図るとぐちゃぐちゃになる。切り離す方が人生における計算は簡単になるのは想像にたやすいが、それは本当に幸せなのか、楽しめているのか。

 

分からないなぁという。答えはでない。

もしも二つ目の解の選択肢の瞬間にも常に一番を二番にしろってことであればある意味答えにはなる。解答として満足のいくものかというと決してそうではないが。

 

数年後にでもこの日記を開いて、きっと選ばなかった方を選べばもっと幸せだったかもと思うのだろう。もしかしたら気がついていないだけで、選んだ選択肢が実は一番幸せなのかもしれない。

やり直せないからこそ、今選ぶ選択が最善であると自信を持って言える人間になることが、大人になるってことなのかもなぁ。